がっこうなのかな
こんにちは、れいです。
数日放置していました、あまり調子が良くないのです。
相変わらず、診察は週1で予約してもらっています。主治医には本当に頭が下がります。そして一昨日の診察待ちの時に病棟の看護師さんにお手紙を渡しに来ました。病棟上がった時に私の苦手な看護師が出てこなくて安心しました。優しい看護師さんが散歩付き添いで出てきて代わりの看護師さん呼んでくれて来た看護師さんが担当Ns②(男性)さんでした。少しお話しながら、「髪色良いじゃん、似合ってるよ!」と言ってくれたり、たまたま担当Ns②さんには書いてきてなくて「ごめーん!」と言いながら、他の看護師さんへの手紙託してきました。
ここ1ヶ月、様々なことに対し積極的に活動していたことや寒暖差に弱い体質で心身ともにお疲れです。調子が良くないと前述しましたが、「疲れている」がの方が表現はしっくりくるんですよね。でも、疲れているから不調を来たしているわけで。うん、似たようなものですね。
様々な出来事もあり疲れているというのは事実で、解離したり、幼児退行状態になったり。
最近はもう心が5歳児の気分でして。(あ、これ書いている今は通常モードですからね)
だいたい自宅だとまあ、精神年齢幼くなるタイプなんですけども、昨日なんて1日中幼稚園児気分でした。解離しているわけではなかったので服薬とかはかろうじてできました。迷惑はかけてないし別に心身の疲労とかの表れなのでもう仕方ないし、ある意味正常と考えてるので「あー最近自分はバブ化してんなぁ、疲れてるんだなぁ~」と思うので気持ち的にはダメージも後悔も否定も無いんですね。退行しているときの心と体と脳内がちぐはぐすぎてなんとも言えない気持ちにはなりますけど…。
退行状態は少数派であっても仮に健全でないと思う人がいても複雑に心や体その他が絡み合ってる人間の仕組み的には正常だと思っています。
これを読んで「本当に苦しんでいる人に失礼」とか「嘘」と思われようが「痛いwww」と思われようが読者がどう思ったかなんて正直それは知ったことじゃないのでどう思われようが構わないです。
「どうぞご自由に」精神です。
TwitterやInstagramも見ていて様々な人がいるのは当然ですが、価値観の違いや見ている感じている世界の違いと言ったらそれまでです。
つらいことか過去や苦しみを比較や一緒にされたくないとか文句言う割に同じことしている人多いなぁ、って思っちゃう。親しい人は例外、とかね。いや、私も然りです。
まあ、それが表現の自由でもあるし犯罪ではないから口を出す案件でもないけど、まあ、これも私の感性と表現。
他人の事情なんて知らないからお互いのこと潰し合わなくてよくない?と。
闘病界隈でありがち「嘘っぽい」「苦しんでいる/つらい人に失礼」とか、同じこと言われたら自分だっていやな思いするでしょう。その発言に悪意があっても無くても。
それに縋らなければ乗り越えられない事とか背景(環境)があるのでは…と。
「つらい/苦しい」を勝手な推測や干渉で比較や否定するのも違うのかな、と。
これは誰かに向けたわけでもないし、自分にも自覚があること。
認め合うのって理想だけど、千差万別たくさんの人間がいる中で価値観合う人や合わせに行くのって労力いるし、そもそもそれは違うし、もうしょうがないですよね。認め合えていたらいじめや戦争なんてないですよね。
全人類みんなコウペンちゃんじゃあるまいし。
TwitterやInstagramと距離置いたり、アカウントは残すけれど、このまま長期間やめようか迷っています。この意思がいつまで続くかは私次第なのですが。
今後はブログ更新のツイートする際に通知見るくらいかな。
SNSがスマホの中の「学校(教室)」に思えてしまうんですね。
なので、もういいかな、なんて思ったり。それで私の中の色んなことが左右されるのももったいないし、生きづらい現実を生きやすくしているのに生きづらい世界は現実世界で充分だわ。
「それはあなたが私よりも恵まれているからそう思えるんだよ」って思う人もいるかもしれないけど、よく考えてみて、それと同じことを言われたとしたら「あなたは私の何を知っているの」ってなるでしょう。
そういうことです。他人がなんて言おうが思おうが最終的に
「そういう人もいるんだな」
で流せればいいんじゃないかな、なんてね、思うんですよ。
少なくとも私はこういう人なので。ぴーす。
休息入院までぼちぼち頑張りますかぁ。
読んでくれてありがとう
れい